

墨田区に遺る勝海舟の関係史跡や逸話を詳しく紹介。
ほかではあまり知ることのできない物語や情報が満載!
勝海舟と墨田区の新たな魅力を伝えるフリーマガジン!!

とは
幕末という時代は、西郷隆盛や坂本龍馬など、
実に多くの英雄たちが歴史の舞台に現れました。
中でも、ひときわ異彩を放つ存在が勝海舟です。
西郷との「江戸城無血開城」は海舟の代表的な功績として知られていますが、
注目すべきはその交渉術というよりも、そこに至るまでの在り方です。
海舟は誠意と信念をもって幕末という時代の激流に向き合いながら、
幕府の要人はもちろん、薩長をはじめとした雄藩の志士たち、
それに坂本龍馬のような浪人まで、立場を超えた交流を重ねました。
一夜にして立場が逆転するほどの激動の中で、
人として向き合う姿勢を貫いた海舟は、
次第に各陣営から信頼される存在となっていきました。
その姿勢が、歴史的な「無血開城」という対話と和解を導いたのです。
ではなぜ、海舟はこれほどまでに柔軟で開かれた行動ができたのでしょうか。
その根底には、海舟が生まれ育った墨田の下町の風土があったといえます。
海舟の父・小吉は破天荒な不良旗本でしたが、義理人情に厚く、
裏表のない人柄で墨田の人々に慕われました。
家計は苦しくとも、困っている人を見れば放っておけない。
武士や町人はもちろん、祈祷師や博徒といった怪しげな者に至るまで、
誰とでも分け隔てなく接し、笑い合う
――そんな日常がありました。
幼い海舟は、そのような父の姿と、人情あふれる下町の空気の中で、
人とのつながりの本質を学んでいったのです。
その精神は海舟の人格の核となり、生涯変わることはありませんでした。
そして、立場を越えて人と向き合うその姿勢が、
やがては歴史を動かす力となったのです。
本フリーペーパーでは、勝海舟が育った墨田に残る足跡をたどりながら、
その人柄や精神の源を、知られざる逸話とともに紹介していきます。
発 行
年3回(3月・7月・11月)
仕 様
B5サイズ/24頁〜(特集内容により増頁)
配布先
墨田区内の博物館・歴史関係施設・観光協会関係施設・関係史跡施設 など
◉両国観光案内所(-両国-江戸 NOREN内)
◉すみだ郷土文化資料館
◉回向院(両国2丁目) ◉たばこと塩の博物館 ◉向島百花園
ほか


勝海舟は文政六年一月三〇日(一八二三年三月十二日)に、
本所亀沢町(現在の両国公園)で生まれました。
当地には父・小吉の実家である男谷家があり、
海舟の一家もはじめこの敷地内で暮らしていました。
文政九年(一八二六)、家を出た一家は本所の界隈を転々とし、
文政十三年(一八三〇)には本所入江町の岡野孫一郎の地内へ転居しました。
海舟はこの間、十二代将軍家慶の五男・初之丞のご学友として
御城勤めをはじめましたが、
初之丞が幼くして病で亡くなったため海舟の出世の道は途絶えてしまいました。
やがて天保十二年(一八四一)、「天保の改革」における取締により、
海舟の父・小吉も虎ノ門(現在の永田町)の保科栄次郎方へ
押し込めとなり、一家は本所の地を離れました。
その後、維新が成り、海舟と西郷隆盛らの尽力によって
江戸城は無血開城され、本所の地も戦火を免れました。
江戸の頃より「相撲」と「料亭」で有名な本所には、
維新後の海舟も料亭に招かれたり、相撲観戦に出かけたりと、
しばしば足を運んだ記録があります。
墨田の随所に見ることができる海舟の面影を、
本誌では丹念に紹介していきます。







編集長
三澤敏博
勝海舟を中心に主に幕末・維新に関する執筆、雑誌連載等を行う。著書に『江戸東京に遺る勝海舟の足跡(日本橋出版)』『海舟と横浜(日本橋出版)』『幕末維新 銅像になった人、ならなかった人(交通新聞社)』『東京「幕末」読み歩き(心交社)』『江戸東京幕末維新グルメ(竹書房)』、『勝海舟関係写真集(共著)』 ほか。
顧 問
髙山みな子(勝海舟玄孫)
慶應義塾大学文学部卒業。会社勤務を経て旅行・紀行雑誌、企業広報誌などの執筆活動をしつつ、勝海舟子孫として講演や各種イベントに参加。高知県観光特使、長崎市観光大使、三重県松阪市ブランド大使、東京都港区観光大使を務める。共著に「勝海舟関係写真集」(出版舎 風狂童子)、「日本全国ユニーク個人美術館」「日本全国ユニーク個人文学館・記念館」(新人物往来社) など多数。




